下野國一社八幡宮に残る指定文化財
■八幡宮本殿
二十四孝図屏風について
中国の有名な孝行話
二十四孝図屏風は中国において後世の範として孝行が特にすぐれた人物24人を取り上げた書物で日本に伝来し仏閣等の建築物に人物図として描かれている。
二十四孝図屏風は二双屏風で24の故事が描かれていて狩野派の狩野元信様式の屏風で狩野永徳の20歳の頃の若描のもの。
本物は福岡市博物館に所蔵されている。
その一つの場面でたけのこのお話があり、母親の病気がたけのこを食べると治るという事をきいて冬の野山に息子が探しに行き苦労のあげくに探し出し母親に食べさせ病気が治ったという場面もある。
また二十四孝は古典落語の演目として10代目桂文治師匠が得意とした。
■八幡宮本殿附八幡宮本社再建図
〔江戸時代〕
八幡宮の現在の社殿は文化11年(1814年)に造り直したもので、このときの図面が残されており、この設計図に基づいて造り直されたようです。飾りの彫刻も、江戸時代後期の特徴をよくあらわしています。
[県指定 昭和40年4月6日]
一国一社八幡宮本殿彫刻について
東側彫刻(八幡太郎、と将兵水を得るの場面)
永正6年(1051年)陸奥(東北地方)の豪族安倍頼時が反乱、「前九年」の役が始まった。八幡太郎義家は父頼義に従い、天喜4年(1056年)参戦、当初は苦戦が続き食糧不足に加え、折からの日照りで将兵は極端な水不足に悩まされたが義家が弓杖にて地面を突いたところ、八幡神の加護に因り大量の水が湧き出し喉を潤した将兵は多いに力を得たと云う
北側彫刻(神功皇后、三韓征伐の場面)
日本書紀巻九に依れば、神功皇后九年冬十月、神の託宣を受けた神功皇后は髪を髻に結い、男の姿となり和珥津(津島上県郡鰐浦)を冬十月に出發した。皇后軍は、飛廉、陽候そして海の中の大魚の扶けに依り労せずして新羅に到る。新羅の王、波沙寐錦(伝説的王)は、皇后軍の勢いに恐れ戦き、即ち素旗を掲げ自ら降伏したとあり、「新羅王」が「神功皇后軍」に降伏した場面の図
西側彫刻(衣川の戦いの場面)
康平五年(1062年)源頼義は出羽(山形縣、秋田県)の長、清原光頼とその弟武則に応援を依頼し秋九月、漸く衣川、厨川の柵を破った。敗走する安倍貞任を衣川に追い詰め、源義家は敗走する貞任に対し「衣の館は綻びにけり」と和歌の下の句を歌いかけた。それに対し、安倍貞任は「歳を経し糸の乱れの苦しさに」と返した。その歌心に感じて貞任めがけていた「矢」を外し、そのまま引き上げたと云う
■八幡宮拝殿・幣殿
〔江戸時代〕
八幡宮略記によると、明和年間(1764年~1772年)に造りなおされた建物です。厳かな中にも華やかさがあり、江戸時代中・後期の特徴を良くあらわしています。
[市指定 平成3年1月22日]
■八幡宮拝殿天井板絵及び大絵馬
〔江戸時代~明治時代〕
八幡宮拝殿の天井に描かれた彩色の板絵及び、拝殿長押に掲げられた大絵馬10枚です。天井絵板の制作年代は建物建立の明和7年(1770年)頃と推定され、漆塗りの格子によって72に区切られた格間それぞれに、花鳥画が描かれており、落款から絵師が「重崇」と分かります。大絵馬は江戸時代中期から明治時代までに板に彩色を用いて描いたもので、八幡宮の信仰に関連するものも多くあります。
[市指定 平成18年3月24日]
八幡宮拝殿天井板絵及び大絵馬1件10枚について
板絵の制作年代は建物の棟札によって確認される明治7年(1770年)頃と推定される。
作者は「絵師学道斎重崇」で市内福居町の宝福寺の絵馬「境内縁日図」を明和6年(1769年)に描いている。
大絵馬は板に彩色をほどこしたもの。
画題と制作年代
1.神功皇后図:文化(1807年)丁卯十月吉辰
2.神功皇后図:天保9年(1838年)戌戌
3.神功皇后図:文政13年(1838年)庚寅歳三月吉日
4.樊噲図:天明元(1781年)辛巳六月吉日
5.弓術掲額:慶応元(1865年)丑年霜月吉祥
6.勿来の関(八幡太郎図):明治三十三年(1900年)十二月
7.松と鳩図:文政十丁亥(1827年)九月吉祥日 法橋□雲写
8.湧水図(源義家):嘉永五壬子(1852年)閏二月吉日
9.衣川合戦図:文化二歳(1805年)八月吉日
10.御神馬図:明和八歳(1771年)卯三月吉日
■銅造鳥居
〔江戸時代後期〕
高さ3.95m、周囲約3.55m。
寛政7年(1795年)、佐野天明の鋳物師 荒井源七宗明、丸山林八長暉の合作で、近郷の有志が献納したものです。柱に転びがあり、笠木、島木の先端が内斜に切ってあるなど、この時代の特色をよく表しています。
[市指定 昭和42年9月19日]